国道325号線?だっただろうか、
宮崎県高千穂町から熊本の阿蘇山の南の麓、高森町方面へ通じる道の途中に河内という村がある。
その村の中心で道は二手に分かれ、左へ行けば高森、
右に折れると大分の方に行く。
そこを左に折れずに右に曲がると、道は、すぐ上り坂になり、
ぐんぐんと山を登っていく。
そして海抜800メートルぐらいの高原に出る。
五か所高原と名付けられていたと思うが、観光地ではない。
昔から農業で暮している人たちの家が木々に隠れるように
点在していて、それも数えるほどしかない。
そこを通り過ぎてしばらく行くと、一瞬熊本県に入るが、
すぐ大分県になる。
宮崎県と熊本県と大分県が交わる山の上なのだろう。
しかし、岩肌が見え高山植物が咲いているようなところではない。
川が流れ樹木に囲まれた盆地の様相を呈している。
その辺り一帯に暮らす人の数は当然ながら少ない。
山を開拓して米や野菜をつくり、牛や馬を育て、
半自給自足のような生活だ。
しかし、澄んだ空気と水に恵まれ、土が肥えているのか、
多くの野菜が穫れ、立派な牛や馬が育つ。
車は時々しか通らない。バスが日に何回か通るが、
耕運機がガタガタと音をたてて、牛よりも遅く走っているのが
目立つくらいだ。
私は、そんな村に恥かしそうに建つ小さな一軒家で
暮したことがある。
暮らしたというのは、少し違うかも知れない。
少しの期間、お世話になったことがある。
そこは、電気水道などは来ているが、ガスはプロパンだった。
その家の人たちは、都会の情報には敏感だったが、
影響されてはいなかった。
モノも豊富ではないが、不足しているモノもなかった。
いや、欲張った話題などは、口から出ることはなかった。
今あるもので満足している。そんな顔ばかりだった。
特別に優しいわけでもない。
けれども、それが当然のように私の世話をしてくれる。
憎悪や憎しみ損得など無縁の普通の人間関係が
そこにはあった。
村人は、無口だがおだやかに自然と溶け込むように
焦ることもなく暮らしていた。
村の家と家とが相当離れていたけれども、
人の繋がりは濃いように感じた。
情が深く助け合うと言うほど大袈裟でもなく、
親子が普通に干渉しあう程度のつきあいだった。
宮崎県高千穂町から熊本の阿蘇山の南の麓、高森町方面へ通じる道の途中に河内という村がある。
その村の中心で道は二手に分かれ、左へ行けば高森、
右に折れると大分の方に行く。
そこを左に折れずに右に曲がると、道は、すぐ上り坂になり、
ぐんぐんと山を登っていく。
そして海抜800メートルぐらいの高原に出る。
五か所高原と名付けられていたと思うが、観光地ではない。
昔から農業で暮している人たちの家が木々に隠れるように
点在していて、それも数えるほどしかない。
そこを通り過ぎてしばらく行くと、一瞬熊本県に入るが、
すぐ大分県になる。
宮崎県と熊本県と大分県が交わる山の上なのだろう。
しかし、岩肌が見え高山植物が咲いているようなところではない。
川が流れ樹木に囲まれた盆地の様相を呈している。
その辺り一帯に暮らす人の数は当然ながら少ない。
山を開拓して米や野菜をつくり、牛や馬を育て、
半自給自足のような生活だ。
しかし、澄んだ空気と水に恵まれ、土が肥えているのか、
多くの野菜が穫れ、立派な牛や馬が育つ。
車は時々しか通らない。バスが日に何回か通るが、
耕運機がガタガタと音をたてて、牛よりも遅く走っているのが
目立つくらいだ。
私は、そんな村に恥かしそうに建つ小さな一軒家で
暮したことがある。
暮らしたというのは、少し違うかも知れない。
少しの期間、お世話になったことがある。
そこは、電気水道などは来ているが、ガスはプロパンだった。
その家の人たちは、都会の情報には敏感だったが、
影響されてはいなかった。
モノも豊富ではないが、不足しているモノもなかった。
いや、欲張った話題などは、口から出ることはなかった。
今あるもので満足している。そんな顔ばかりだった。
特別に優しいわけでもない。
けれども、それが当然のように私の世話をしてくれる。
憎悪や憎しみ損得など無縁の普通の人間関係が
そこにはあった。
村人は、無口だがおだやかに自然と溶け込むように
焦ることもなく暮らしていた。
村の家と家とが相当離れていたけれども、
人の繋がりは濃いように感じた。
情が深く助け合うと言うほど大袈裟でもなく、
親子が普通に干渉しあう程度のつきあいだった。
コメント
天孫降臨の地をご存じとは恐れ入りました。
爺は河内長野市に根拠を於いて
楠木正成などを散策したのは
いつのことだったか・・・