内灘婦人
内灘婦人
宇奈月温泉では観光したいところもあったが、雪の量が多かったので
歩いて観て廻るには不便だと思った。
それよりも、昨夜、ふと思いついて金沢に行ってみようと思った。
県立石川美術館。
何をやっているか分からないが、常設展だけでもいいと思った。
そして、もう1か所。
内灘。
若いころ読んだ五木寛之の「内灘婦人」を思い出したのだ。
その小説の舞台となった内灘砂丘を訪ねてみたいと思った。
その為には、朝9時発の電鉄富山行きに乗らなければならなかった。
他にも電車はあるのだが、この電車は無料なのだ。
通常の値段では片道1780円。
往復3560円も得なのだから、これしかない。
これを逃すと、夕方の4時過ぎの電車しか無料の電車はない。
私は、9時ちょうどの特急に乗った。
100分ほどで富山に着き、富山からすぐ北陸本線の大阪行きの
サンダーバードで金沢に着いた。
駅のバス案内所で県立美術館の停留所と乗り場を尋ねた。
3番乗り場から出ているバスで出羽町で降りればいいと教えてもらった。
県立美術館では、加賀文化のなんたらという特別展をやっていたが、
常設展示だけを見て廻ることにした。
時間がないと思ったからだ。
私は、美術館と風呂は入ったら長いから(笑)。
駆け足で観て廻ったが、6つの展示室を全部みて1時間半かかった。
大急ぎで金沢駅に戻らねばならなかった。
出羽町でバスを待っている時間はない。
タクシーを拾った。
タクシーに乗った瞬間、傘を忘れたことに気がついて、
「あ!」と声をだすと、運転手が、
「忘れ物ですか?、すぐ戻りましょう」と言ってくれた。
しかし、たかが500円の傘だから、結構ですと断った。
でも、あの傘、1回も使わなかった。
金沢から北鉄線に乗って内灘まで行った。(片道310円だったと思う)
内灘の駅で降りても私の行きたい内灘砂丘は無かった。
私の記憶は、すでに過去のものだった。
私が「内灘婦人」を読んだ時には、すでに無くなっていたのだろう。
本の内容すら、ハッキリ思い出せないのに、なぜか覚えている言葉があった。
内灘闘争。反戦。朝鮮動乱。有閑マダム。貧乏学生。

内灘駅のタクシーの溜まり場で、運転手がヒマそうにタバコを吹かしていたので、
昔、そんなことがこのあたりでありましたよねぇと話しかけると
それなら、「風と砂の館」に行けばいいと教えてくれた。
すぐだからと、その運転手のタクシーに乗った。
走ること約10分ぐらいだったと思う。
タクシーから降りるとき、「すべらないように気をつけて」と
運転手が気をつかってくれた。
周りは雪が積もっていて、風と砂の館の入口まではタイル貼りのスロープに
なっていたからだ。
雪には、足跡ひとつない。
休みかな?と思ったが、入口は開いていた。
入口を入ると入場券(200円)を売る券売機があった。
入場券を買って、扉をあけると年配のオジサンが一人飛び出してきた。
どうぞ、ゆっくり観てくださいと言われ、そろそろと歩きまわると
そのオジサンが、私と一緒についてまわって、いろいろと解説してくれた。
この風と砂の館は、隣接する温泉と共に、竹下内閣の時、
ふるさと創生の1億円で建てたと教えてくれた。
内灘闘争は、昭和27年、政府が在日米軍の砲弾試射場の候補地にしたことに
よっておこった戦後初の基地反対闘争だと知った。
この闘争は、「草の根民主主義への出発点」として高く評価されていると、
パンフレットに書いてあるとおりの言葉で説明してくれた。
もしかして、あの東大安田講堂の占拠とか、他の学生運動とかの原点が、
ここにあったのでは?と思った。
でも、なぜか内灘闘争コーナーは、わずかのスペースだった。
他に凧コーナーがあって、いろんな変わり凧が展示されていた。
そして、むかし、この地に粟ケ崎遊園というのがあって、大変賑わっていたこと
を示す資料もあった。
オジサンは、内灘砂丘など、とっくになくなって今は海水浴場になっていると
教えてくれた。
私の憧れた内灘婦人も、すでに90歳ぐらいかな?(笑)
今から56年以上も前の話しだと知った。
携帯電話などない遠い昔、青年と婦人との恋愛話だったとおもう。
その内容はハッキリ覚えていないが、最後に婦人から、別れの手紙が届いて、
そのものすごい長い手紙の内容に涙したように思う。
すべては、風と砂のように長い年月で消えていこうとしていた。
でもまぁ、来てよかった。

風と砂の館を出て、北大医学部付属病院まで歩いた。
そこにタクシーが止まっていると教えてもらったからだ。
歩きながら、学生時代を思い出した。

学生時代に一度だけ家出をしたことがある。
父母と3人暮らしだった私は、両親の思いも分からず、
何も言わず、プイと家を出て、友達のところを寝泊まりしていた。
両親は、自分らは学が無いから我が子には大学を出させたいと思っていた。
私は、貧しい農家なのに、高い授業料の私立大学に在籍していることが
イヤだったから大学に行くのをやめると言った。
それは、いわゆる坊ちゃん学校だったからだ。
学生のほとんどは金持ちの学生で、大学には高級外車で乗りつけてくる連中も
たくさんいた。
女子学生は、ほとんど皆ブランドものを身につけていた。(と、思った)
そんな中で、ある時、私は自分の身につけているものの値段を計算してみた。
500円のGパン、150円のTシャツ、下着は計算にいれなかったが、
300円の運動靴だけだった。
千円にも満たなかった。
時計は、その時、小遣いが無かったので質に入れていた。
みじめだった。
冬になって、大学の前から出ているバスに乗る為にバス停で待っていると、
一緒に並んでいた女子学生は、次から次へと高級外車や国産車に乗った学生に
声をかけられ、乗せてもらって楽しそうに帰って行く。
誰からも声をかけられず、ポツンとバスを待っていた時の寒かったこと(笑)。
バスを待つのをやめて、私と同じような貧乏学生が下宿しているところまで
歩いていったこともあった。
そんな時に限って、その貧乏学生は留守だったりして、またトボトボと
バス停まで戻ってきたことがあった。
私は、アルバイトをしたいと思った。
働きたいと思った。お金が欲しかった。
親から小遣いばかりせびっているのがイヤだった。
でも両親は、アルバイトなんかしないで勉強してくれと頼むばかりで、
小遣いも月1万円がやっとだった。
その当時としては、世間並みより多いのか少ないのか知らないけれど、
私の感覚では、少な過ぎた。
でも、それ以上、親に無理を言うことはできなかった。
で、今回の逃避旅と同じように家を出てしまった。
貧乏学生の下宿家を転々として、1週間ほどしてから帰った。
両親は、ものすごく心配しているだろうと思った。
でも、怒られることもなく、黙って迎えいれてくれた。
何も聞かず、ちゃんと食べてたか?とだけ聞いてくれたが、
その目に涙が浮かんでいたのを見た。
すまないと思った。

その頃から、私には放浪癖があったのだろうか・・・

そんなことを思い浮かべながら、タクシーに乗り、
内灘駅から金沢駅まで戻ってきた。

これからどうしよう?と考えた。
もう、帰ろうかと思った。
そして、せっかく石川県まで来たんだから、もう1泊しようかとも思った。
駅で時刻表をみると、大阪に帰っても、地下鉄の最終電車にギリギリ
間にあうかどうかわからなかった。
いや、間にあうだろうけど、もう一度温泉につかりたいと思った。

そして私は、加賀温泉駅までの切符を買って、片山津温泉の旅館に電話した。


     おもしろき こともなき世をおもしろく
         住みなすものは 心なりけり


コメント

naochan
2009年2月24日18:59

雪の北陸、風情がありますね。

一緒に歩いているようで、横でボソボソと
思い出を聞いているような気分でした。

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