関空からJALに乗って台北に行った。
若い現地ガイドが台北空港で待ってくれていた。
今回のツアーは、7人だとその時知った。
私以外の3組は、皆60過ぎから70前の夫婦だ。
私も、そんなに変わらないのだが(笑)、若く見られたのか、
それとも、男の一人旅のためなのか、少し浮いていた。
ガイドの日本語は、たどたどしく聞き取りにくかった。
しかし、その分、一生懸命にみえた。
ガイドは4日後、台北をあとにする時まで
とても親切で好感がもてた。
ツアーは、定番のところばかりを巡るスケジュールになっていて、
台湾は3度目だというひと組の夫婦は、
ガイドのたどたどしい観光案内など聞かず、
エステやスパの話ばかりをしていて、耳障りだった。
そして、もうふた組の夫婦は、ガイドの日本語にチェックをいれ、
ダメ出しに余念がなかった。
私はマイクロバス最後列の席でガイドの日本語の翻訳?をしながら
彼のチカラを込めて熱心にしゃべる観光案内を聞いていた。
日本を出るまでは、台湾には、特別な興味はなかった。
そして、いつものように旅の始まりは鬱な気分だった。
「小籠包」も「故宮博物館の展示物」にも興味はなかった。
だが、建物だけは「タイペイ101」と併せて見ておきたかった。
それぐらいだった。
建築家としての血が騒ぐのと、
いつまでも引きずっている夢のカケラが
私を台湾まで連れてきてくれたのだ。
到着した日は「九フン」へ行った。
映画「千と千尋の神隠し」の舞台となった所らしい。
地理的には、台湾のアマルフィーといった感じのところに
位置しているような気がした。
狭くて急な階段の脇に赤い提灯を連ねてある店があって、
いにしえの中国を連想させる。
それだけであった。
そこに行くまでの狭い商店街は、たぶん「臭豆腐」のにおいだろう、
クサイ匂いが、ときおり風に乗って私の鼻を曲げた。
ホテルは、一人旅のため追加料金を払わされていたが、
ダブルベッドの広くて綺麗な部屋だった。
ビュッフェスタイルの食事は、食べたいものが少なかった。
ホテル以外の食事は4回だけで、ツアーの7人で円卓を囲んで一緒に食事をした。
そのうち2回は鍋料理だった。
鍋料理と言っても、7人で一つの鍋であった。
はじめ、ガイドに言われた時は、「え?」と聞き返したぐらいだ。
初対面の人たちと、ひとつの鍋をつつく?
全員驚いたが、他のどのテーブルでも同じことをしていたので、
全員、納得しながら和気あいあいと食べた。
「若い人なら、アリエナ~イ!とか言って拒否反応をおこすだろう」と、
おじいさんが言ったのにも驚いた。
さて、今回の旅で、今までどこに行っても感じ無かったことが
ひとつだけある。
私の独断と偏見なのかも知れないが、台湾は良いところだと思った。
その理由は、私の求めていた「人間性」のようなものを垣間見たからだ。
もちろん、すべての台湾人が、そうだというのではない。
ひょっとしたら、大多数の台湾人の心の奥底に流れている宗教観かも
知れないと思っただけだ。
自由行動がたっぷりあったので、一人でも参加OKという
安いオプショナルツアーを申し込んだ。
そしたら、私ひとりだけだった。
私ひとりのために、同じガイドと運転手つきである。
龍山寺、行天宮、など神社を4か所廻った。
で、たまたまかも知れないが、我々日本人が常識だと思っていることと、
少し違っていることに気付いた。
カルチャーショックとでも言うのだろうか?
どの神社、寺に行っても賽銭箱が無い。
普通、日本では入山料とか拝観料とかを支払うが、それも無い。
それどころか、パンフレットの類はもちろん、分厚い経本や
中国風の長い線香や蝋燭なども、自由に使用できる。
もちろん経本などは、持ち帰り自由(無料)なのだ。
寺の片隅に小さな本屋さんぐらいに並べてあるところもあった。
ガイドに勧められて、難しい漢字ばかりの経本を数冊カバンに入れた。
パラパラとめくってみると、阿弥陀経や般若心経などは、
日本のお経と、ほぼ同じだった。
因果経などというのもあったので、持ち帰った。
さらに、まじないのようなことも無料でしてくれるので、
長い行列ができていた。
おみくじも無料だ。
勝手にクジを引いて、引いたクジと同じ番号の箱から
おみくじを取り出す。(1番から100番くらいまであったと思う)
日本なら100円から300円くらい必要だろう。
ガイドに勧められて私も、おみクジを引いてみた。
クジ箋に書いてある意味はわからない。
しかしガイドがウラに、ひらがな交じりの上手な日本語で意味を書いてくれた。
しかし・・・・と、
私は、当たり前な疑問が浮かび上がった。
神社(寺)関係者は何で生計を立て、豪華で貴重な仏像や建物を維持管理
しているのだろうか?
ガイドの説明では、寄付だという。
それで充分すぎるぐらい潤っているのだと言う。
その時、私は思った。
宗教は、いや人間は、このようであれば良いと思う。
対価をあてにしない。求めない。
そして、してもらったから、お返しをするのではなく、
お返し(適切な言葉を知らないが)をしたいから、する。
寄付のようでもあるが、それとも違う。
たとえば、女性が化粧をするのは、金儲けのためではない。
自分が美しくなりたいから化粧する。
まして男性からの貢物を期待して化粧するわけではない。
その女性を素敵だと思った男性は、下心の無い貢物?をする。
そして女性は、何の疑念も持たず、それを受け取る。
生産者は自分の作りたいものを作ればよい。
金儲けなどを心に浮かべず、良いものを作ろうとすればいい。
それがたとえ稚拙なものでも構わない。
対価を求めず、向上したいと思う心があればいい。
消費者は、対価のことなど考えず消費すればいい。
感動する心と、それを表現する方法を身につけているだけでいい。
価値とか値打ちとか比較とかの無い世界。
自分さえ良ければいいというのではない。
当たり前すぎて、支えあうという言葉も必要のない世界。
うまく言い表せないが・・・、
そんな人間の生活が、あれば良いと思う。
私は、商売をして、なんとか儲けることができた。
しかし、商売がヘタだった。商売が嫌いだった。
もし私が江戸時代の殿様だったら、
「士農工商」という身分制度を作っていたかも知れない。
いや、身分制度なんておぞましいことは考えもしないけど、
商売人を卑下していたかも知れない。
うまい商売とは「安く仕入れて高く売ること」と学んだ。
それは詐欺のように思えた。
仕入れたモノに、自分の努力を足した分を売るだけで良いではないか。
付加価値とか利益などというものを乗せるのは、詐欺行為のように
思えた。
だが、付加価値とか利益とか努力とかの値は、自分では決められない。
相手があって決まる。
それは、チカラ関係でもある。一種の争いである。
だから、商売は嫌いなんだ。
これが、逆?の発想だったら・・・・。
(発想と言わなければならないのが歯がゆいが)
たとえば、
安いか高いか分からない(気にせず)モノを手に入れて、
そこに、自分のしたい努力(手)を加えて、欲しい人がいれば差し上げる。
売ると言う心も持たない。
したがって、買うという心もないが(うまい言葉が見つからないので、)
仕入れた人が、それを消費してもいいし、
またそれに、あるいは、違うものに自分の努力(手)を加えて、
欲しい人がいれば差し上げる。
それを喜びとし、それが当たり前な世界。
そんな世界に憧れる私は、
今の世の中では、無知か変人か、ノーテンキなお人好しぐらいにしか思われないだろう。
でも・・・・、
自分を愛し、人を愛し、人類を愛する心があれば、
何面体もあるルービックキューブを散々いじくり回した結果のような
複雑な人間関係や人の心も、元の真の美しい姿に戻すことができるだろう。
などと考えているうちに、私は、はたと気付いた。
このオプショナルツアーの支払いをしていなかった。
確か、前払いのはずである。
それをガイドに伝えると、
「大丈夫、日本人は信用してますから」と笑いながら答えてくれた。
それでも私は「すまない」と言いながら安い料金を受け取らせた。
ガイドは、料金を受け取ってからも、態度は変わらなかった。
同じように私を気遣ってくれて懇切丁寧な案内だった。
これが、若くて可愛い女性ガイドだったら最高だろうな・・・などと、
邪念を抱く自分自身が恥ずかしかった。
若い現地ガイドが台北空港で待ってくれていた。
今回のツアーは、7人だとその時知った。
私以外の3組は、皆60過ぎから70前の夫婦だ。
私も、そんなに変わらないのだが(笑)、若く見られたのか、
それとも、男の一人旅のためなのか、少し浮いていた。
ガイドの日本語は、たどたどしく聞き取りにくかった。
しかし、その分、一生懸命にみえた。
ガイドは4日後、台北をあとにする時まで
とても親切で好感がもてた。
ツアーは、定番のところばかりを巡るスケジュールになっていて、
台湾は3度目だというひと組の夫婦は、
ガイドのたどたどしい観光案内など聞かず、
エステやスパの話ばかりをしていて、耳障りだった。
そして、もうふた組の夫婦は、ガイドの日本語にチェックをいれ、
ダメ出しに余念がなかった。
私はマイクロバス最後列の席でガイドの日本語の翻訳?をしながら
彼のチカラを込めて熱心にしゃべる観光案内を聞いていた。
日本を出るまでは、台湾には、特別な興味はなかった。
そして、いつものように旅の始まりは鬱な気分だった。
「小籠包」も「故宮博物館の展示物」にも興味はなかった。
だが、建物だけは「タイペイ101」と併せて見ておきたかった。
それぐらいだった。
建築家としての血が騒ぐのと、
いつまでも引きずっている夢のカケラが
私を台湾まで連れてきてくれたのだ。
到着した日は「九フン」へ行った。
映画「千と千尋の神隠し」の舞台となった所らしい。
地理的には、台湾のアマルフィーといった感じのところに
位置しているような気がした。
狭くて急な階段の脇に赤い提灯を連ねてある店があって、
いにしえの中国を連想させる。
それだけであった。
そこに行くまでの狭い商店街は、たぶん「臭豆腐」のにおいだろう、
クサイ匂いが、ときおり風に乗って私の鼻を曲げた。
ホテルは、一人旅のため追加料金を払わされていたが、
ダブルベッドの広くて綺麗な部屋だった。
ビュッフェスタイルの食事は、食べたいものが少なかった。
ホテル以外の食事は4回だけで、ツアーの7人で円卓を囲んで一緒に食事をした。
そのうち2回は鍋料理だった。
鍋料理と言っても、7人で一つの鍋であった。
はじめ、ガイドに言われた時は、「え?」と聞き返したぐらいだ。
初対面の人たちと、ひとつの鍋をつつく?
全員驚いたが、他のどのテーブルでも同じことをしていたので、
全員、納得しながら和気あいあいと食べた。
「若い人なら、アリエナ~イ!とか言って拒否反応をおこすだろう」と、
おじいさんが言ったのにも驚いた。
さて、今回の旅で、今までどこに行っても感じ無かったことが
ひとつだけある。
私の独断と偏見なのかも知れないが、台湾は良いところだと思った。
その理由は、私の求めていた「人間性」のようなものを垣間見たからだ。
もちろん、すべての台湾人が、そうだというのではない。
ひょっとしたら、大多数の台湾人の心の奥底に流れている宗教観かも
知れないと思っただけだ。
自由行動がたっぷりあったので、一人でも参加OKという
安いオプショナルツアーを申し込んだ。
そしたら、私ひとりだけだった。
私ひとりのために、同じガイドと運転手つきである。
龍山寺、行天宮、など神社を4か所廻った。
で、たまたまかも知れないが、我々日本人が常識だと思っていることと、
少し違っていることに気付いた。
カルチャーショックとでも言うのだろうか?
どの神社、寺に行っても賽銭箱が無い。
普通、日本では入山料とか拝観料とかを支払うが、それも無い。
それどころか、パンフレットの類はもちろん、分厚い経本や
中国風の長い線香や蝋燭なども、自由に使用できる。
もちろん経本などは、持ち帰り自由(無料)なのだ。
寺の片隅に小さな本屋さんぐらいに並べてあるところもあった。
ガイドに勧められて、難しい漢字ばかりの経本を数冊カバンに入れた。
パラパラとめくってみると、阿弥陀経や般若心経などは、
日本のお経と、ほぼ同じだった。
因果経などというのもあったので、持ち帰った。
さらに、まじないのようなことも無料でしてくれるので、
長い行列ができていた。
おみくじも無料だ。
勝手にクジを引いて、引いたクジと同じ番号の箱から
おみくじを取り出す。(1番から100番くらいまであったと思う)
日本なら100円から300円くらい必要だろう。
ガイドに勧められて私も、おみクジを引いてみた。
クジ箋に書いてある意味はわからない。
しかしガイドがウラに、ひらがな交じりの上手な日本語で意味を書いてくれた。
しかし・・・・と、
私は、当たり前な疑問が浮かび上がった。
神社(寺)関係者は何で生計を立て、豪華で貴重な仏像や建物を維持管理
しているのだろうか?
ガイドの説明では、寄付だという。
それで充分すぎるぐらい潤っているのだと言う。
その時、私は思った。
宗教は、いや人間は、このようであれば良いと思う。
対価をあてにしない。求めない。
そして、してもらったから、お返しをするのではなく、
お返し(適切な言葉を知らないが)をしたいから、する。
寄付のようでもあるが、それとも違う。
たとえば、女性が化粧をするのは、金儲けのためではない。
自分が美しくなりたいから化粧する。
まして男性からの貢物を期待して化粧するわけではない。
その女性を素敵だと思った男性は、下心の無い貢物?をする。
そして女性は、何の疑念も持たず、それを受け取る。
生産者は自分の作りたいものを作ればよい。
金儲けなどを心に浮かべず、良いものを作ろうとすればいい。
それがたとえ稚拙なものでも構わない。
対価を求めず、向上したいと思う心があればいい。
消費者は、対価のことなど考えず消費すればいい。
感動する心と、それを表現する方法を身につけているだけでいい。
価値とか値打ちとか比較とかの無い世界。
自分さえ良ければいいというのではない。
当たり前すぎて、支えあうという言葉も必要のない世界。
うまく言い表せないが・・・、
そんな人間の生活が、あれば良いと思う。
私は、商売をして、なんとか儲けることができた。
しかし、商売がヘタだった。商売が嫌いだった。
もし私が江戸時代の殿様だったら、
「士農工商」という身分制度を作っていたかも知れない。
いや、身分制度なんておぞましいことは考えもしないけど、
商売人を卑下していたかも知れない。
うまい商売とは「安く仕入れて高く売ること」と学んだ。
それは詐欺のように思えた。
仕入れたモノに、自分の努力を足した分を売るだけで良いではないか。
付加価値とか利益などというものを乗せるのは、詐欺行為のように
思えた。
だが、付加価値とか利益とか努力とかの値は、自分では決められない。
相手があって決まる。
それは、チカラ関係でもある。一種の争いである。
だから、商売は嫌いなんだ。
これが、逆?の発想だったら・・・・。
(発想と言わなければならないのが歯がゆいが)
たとえば、
安いか高いか分からない(気にせず)モノを手に入れて、
そこに、自分のしたい努力(手)を加えて、欲しい人がいれば差し上げる。
売ると言う心も持たない。
したがって、買うという心もないが(うまい言葉が見つからないので、)
仕入れた人が、それを消費してもいいし、
またそれに、あるいは、違うものに自分の努力(手)を加えて、
欲しい人がいれば差し上げる。
それを喜びとし、それが当たり前な世界。
そんな世界に憧れる私は、
今の世の中では、無知か変人か、ノーテンキなお人好しぐらいにしか思われないだろう。
でも・・・・、
自分を愛し、人を愛し、人類を愛する心があれば、
何面体もあるルービックキューブを散々いじくり回した結果のような
複雑な人間関係や人の心も、元の真の美しい姿に戻すことができるだろう。
などと考えているうちに、私は、はたと気付いた。
このオプショナルツアーの支払いをしていなかった。
確か、前払いのはずである。
それをガイドに伝えると、
「大丈夫、日本人は信用してますから」と笑いながら答えてくれた。
それでも私は「すまない」と言いながら安い料金を受け取らせた。
ガイドは、料金を受け取ってからも、態度は変わらなかった。
同じように私を気遣ってくれて懇切丁寧な案内だった。
これが、若くて可愛い女性ガイドだったら最高だろうな・・・などと、
邪念を抱く自分自身が恥ずかしかった。
コメント
洞察力と志し高き意思に接して気持ちが凛!。
高貴なるお坊さんの説より有難い。
衆生を救うためにお金は要求しなかったのかも