世の中は、危険なもので溢れている。
電車や飛行機などの乗り物に限らず、食品や生活用品にいたるまで
なんでも危険なものは危険だ。
特に原子力発電は、危険なモノとして危惧され議論されてきた。
にもかかわらず、絶対安全だということで推進されてきた。
それが、そうでは無いことが実証された。
だったら、もう議論の余地はないだろう。
議論する必要もない。

他のものは、多少危険なこともあるが、たぶん、おそらく、
あるいは、使い方によって、危険を回避できるモノである。
交通事故も飛行機事故も、起きることを前提に安全性を議論されてきた。
しかし、原子力発電は、事故が起きないことを前提に議論されてきた。
事故が起きても安全だという議論はされてこなかった。
100%も、120%も安全だということで原子力発電を
押し進めてきたはずだ。と、私は認識してる。

それを、今さら事故が起きても未だ安全です。というのは、
言い訳にしかならない。議論しなおす必要もない。
今の人類の叡知では、無理だと思う。
あきらめるのではなく、思い知ることだと思う。
それが「原子力発電に対する見なおし」だろう。

今、全世界にある原子力発電は、それこそ、
「ただちに、事故を起こすものではない」
だけだ。

コメント

ゆう
2011年3月27日0:19

一砂 心さん

はじめまして、ゆうです。

私は原子力発電所の経緯をまったくしりません。

無知とは怖いものです。

福島原発をつくるときは福島県の方は猛反発をしたと思います。

それは原発だけではありません。

沖縄に米軍基地をつくるときもわたしたち都民は反対しきれませんでした。

他の都民は自分さえ良ければ、満足なわけです。

しかし、私、ゆうは違います。

私は福島原発できる時には反発しませんでした。

私ができる事は、それらを止められなかった事に対して「贖罪」を受ける覚悟をきめる事なんです。

つまり、放射能もれが東京に流れて致死量にたっしても、私は東京を離れません。

それはなぜでしょう?

私たち都民の身勝手な対応に正直に嫌気がさしています。

その都民の愚民性を私がイエスキリスト様のごとく、私が十字架を背負って、私が被曝受けて、それでも、生き残れば、それは「奇跡」なんです。

私はいちいちあれこれ調べる事は一切しません。

私が「使徒」としての大いなる覚悟で乗り切れば良い!

つまらない情報に操作されることなく、これからの被害を前もって知ればそれでよいわけなんです。

ニュータイプの私が、その程度の試練をのりこえられれない訳がありません。

一砂 心
2011年3月27日1:22

はじめまして、ゆうさん。
しっかりした覚悟に感服いたします。
命を大切に生き延びてくださいネ。
メッセージ、ありがとうございました。

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